1西魏政権の権力構造を検討した。実権者宇文泰が主宰した大丞相府と関西大行台の両衙門が中心にあることを確認した上で、以下の点を明らかにしえた。大丞相府は中央における軍事・行政両面での最高機構であった。関西大行台は本質的に地方行政機構であり、大行台を置くことによって、中央から切り放された独立性の強い地域を確保することができた。行政の執行という観点からは、その所属に応じた職務に従事したと考えられるが、政策の決定という段階においては、大行台の属僚にも大丞相府の属僚とともに国政に参画する事例が多く見られることから、両衙門の垣根は低かった。両衙門の併置には、宇文泰が抱える多数の幕僚に与えるポストを確保する側面もあったと考えられる。以上の内容に、政権構成員の位置付けを規定するための尺度に関する若干の展望を加えて、中国中世史研究者フォーラム例会で口頭発表した(7月11日於京大会館)。会場で諸氏より賜った意見をあわせて、論文を執筆中である。 2西魏政権の中核にあった李弼一族の出自について検討した。従来の文献史料による研究では、遼東襄平、或いは隴西成紀出身の漢族と見做されていた。新出の墓誌史料「徒何倫墓誌銘」(当該一族の墓誌銘の中で最も古く、北周時代に製作された唯一のものとして貴重)にある本貫地、「梁城郡泉洪県」とは北魏の旧都平城の近郊であり、これと「徒何」という姓をあわせて考えると、李弼一族は西暦四○○年前後に、河北・山東から平城に徙民された徙何鮮卑の末裔である可能性が高い。西魏から隋唐までの政権における胡漢の比率やその融合の過程を考える上で、これは大きな影響を与える。現在、論文を執筆中。 3西魏政権が王都を置いた西安に関する中国語論文、李令福「階大興城的興建及其対原隰地形的利用」、呉宏岐「明清時期西安城的水環境与水資源利用」を翻訳した。次年度、妹尾達彦氏編の論集に掲載される予定。
|