1 前年度に引き続き、西魏政権の中核にあった李弼一族の出自について検討した。新出の墓誌史料「徒何綸墓誌銘」(当該一族の墓誌銘の中で最も古く、北周時代に製作された唯一のものとして貴重)にある本貫地、「梁城郡泉洪県」とは北魏の旧都平城の近郊であり、これと「徒何」という姓をあわせて考察した結果、李弼一族は西暦四〇〇年前後に、河北・山東から平城に徙民された徒何鮮卑の末裔である可能性が高い。西魏から隋唐までの政権における胡漢の比率やその融合の過程を考える上で、これは大きな影響を与える。『人文研紀要』誌にて公刊。 2 西魏北周時代の柱国と国公の位置付けを分析することにより、当該政権の構成員の階層化の状況を明らかにし、続く隋唐政権にいたるまでの人員変動を把握するための基礎を整備した。柱国と国公は、群臣により高い栄誉を与えるために、従来の官位の位置付けを変更したり、新たに設けられたという点で共通する。柱国は武官の驃騎大将軍・開府儀同三司が飽和状態になったために西魏大統一四年(五四八)に散官化された。国公もまた、王の周囲に諸侯国が封建された周代を再現する意図とともに、群臣が昇りつめていた郡公位が飽和状態になっていたところに、更なる栄誉を与えるべく、北周初年(五五七)に設置された。功績を上げた個人に与えられた柱国と異なり、国公等の爵位は相続されていくものであり、功績に基づく新たな家格の設定、支配階層の編成が志向されていたと考えられる。また、両者を用いて政権構成員を分析したところ、従来の「八柱国十二大将軍」という把握は成立せず、かかる文言が唐代の史書編纂の所産であることがほぼ確実となった。『東洋史論集』誌にて平成18年5月公刊予定。
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