フローベール(1821-1880年)の遺作『ブヴァールとペキュシェ』(1881年)は、表題に名前が挙げられている二人の主人公が十九世紀の知の領域を次々に探究していくという物語が展開される百科全書的小説である。例えば1840年代前半に設定された第三章では自然科学の諸分野が二人の知的好奇心の対象となり、その後半部分で地質学が採り上げられる。十九世紀の科学はこの時代に起こった科学の大衆化運動(1820年頃-1890年頃)への参照なくしては論じることができないが、地質学はこの運動の中心的対象となって社会の広汎な層に流布されたという点から、作者の特権的な関心の対象であったと思われる。本研究は、この地質学という学問を取り巻く歴史的コンテクストを復元することによって、作家の科学観を新たな角度から解明することを目的とするものである。第二年度はその一環として、一方では『ブヴァールとペキュシェ』の地質学の挿話の草稿、他方では科学の大衆化運動を歴史学の観点から記述した文化史の文献を参照し、この運動が小説のテクストの生成にいかなる様態で関与しているのかを調査した。その結果、フローベールがこの挿話を執筆するに当たって、例えば十九世紀前半を代表する地質学者ジョルジュ・キュヴィエが著した専門書を直接引用するのではなく、この学者の業績を一般読者向けに平易に紹介したアレクサンドル・ベルトランの啓蒙書こそを多く援用していることが判明した。このような啓蒙書を筆頭とする十九世紀の科学の大衆化運動を諸産物が科学の言説と小説のエクリチュールの媒介者として重要な役割を果たしていることを明らかにしたこの研究成果は、『日本フランス語フランス文学会関東支部論集・第14号』(2005年)に掲載の論文で発表された。
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