「ベルクソンにおける身体概念-フランス唯心論の再検討」と題された研究プロジェクトの一年目にあたる今年度は、予定通り、基本的な文献調査、問題構成の検討を行い、それを元に、幾つかの成果を発表した。 1)現在、ベルクソンに関する研究は世界各地で再活性化してきている。ベルクソン研究のこれまでの歴史を概観し、これらの文献に見られる共通の関心事、思想的争点を整理することで、本研究の据えられるべき位置を明確化しようと努めた。ベルクソン研究の過去二十年をポスト・ドゥルーズ的な状況と捉え、その変遷(美学的潮流・哲学的潮流・科学的潮流)を分析した。これは、論文「世界におけるベルクソン研究の現在」(『ベルクソン読本』、法政大学出版局)という形で発表された。 2)「身体」概念において重要な役割を果たすと同時に、その理解に際して重大な障碍ともなる「生命」の概念、とりわけその思想的な表現とも言える「生気論」を分析した。ベルクソン『創造的進化』の決定的な場面に現れる「手」のモチーフに着目し、三つの具体例を取り上げて分析することによって、ベルクソンには一種の生気論とも言うべきものが存在するが、それは完全に伝統的な「有機的」生気論ではなく、「(非)-有機的な」生気論であるという結論を得た。この成果は、論文「ベルクソンの手。(非)-有機的な生気論の歴史のために」(『仏語仏文学研究』、東大仏語仏文学研究会)という形で発表された。 3)生気論と対をなす形で、生命概念を(したがって逆説的な形で、身体概念を)支えるのが目的論である。この目的論の歴史の中で(とりわけ生命概念との関わりで)重要な思想家が、カントとベルクソンである。カントにあっては、「統整的理念」が外的合目的性と内的合目的性のなす回路を「閉じた全体」として完成する「自然の狡知」があり、文明の進歩は「非社交的社会性」によって行われる。これに対し、ベルクソンにあっては、「エラン・ヴィタル」が外的合目的性のみによって潜在性を孕んだ「開かれた全体」を形成する「進化の狡知」があり、人間という種の進化は合理的な社会改良と非合理的な経験による新たな道徳の創出によって行われる、という結論を得た。この成果は、「カントとベルクソンにおける合目的性の概念」(『仏語仏文学研究』)という形で発表された。
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