昨年度からの研究成果をふまえて、今年度は「『詩学』における時間の問題」を扱った。具体的には、つぎの二つの点からその問題の考察を試みた。 (1)悲劇の解読においては、人間存在に本質的・不可避的につきまとう不確実性・運命を「哲学的」にどのように語り、意味づけるかが、いわば常道のひとつとなっている。たしかに、『オイディプス王』を読む(観る)者にとって、その展開と結末には有無を言わせぬ迫真性がある。しかし、悲劇の「鑑賞」という角度からではなく、悲劇の「創作」という視点から、悲劇の悲劇性を解明しようとすれば、当然のことながら、作品の核となる「物語」[出来事の組立て]という構成要件に着目しなくてはならない。ところが、「物語」という観点から見たとき、われわれにとって意外なのは、現存するギリシア悲劇作品中の最高峰と目される『オイディプス王』をAr.は最高とはみなしていない、という点である。そしてアテナイ人もまた、『オイディプス王』を悲劇競演において第一位に推さなかった。この奇妙な一致はいかなる事態をわれわれに告げているのか、それを追跡するさことによって、Ar.の悲劇論の特徴ひいては人間理解(このことは、ソポレクスを高く評価した思われるプラトンの場合と比較すれば、より一層鮮明となろう)を考察した。 (2)他方Ar.は優れた悲劇作品を生物になぞらえる。必然的な一貫性を保つことによって、「ひとつの大きさをもつもの(生物)」となるとき、悲劇作品は、Ar.が生物学的探求において見出したような、秩序性を顕著する。Ar.の哲学に通底するこの地平を析出することによって、われわれはそこに、〈悲劇の時間〉の成り立ちを見ることができ、人間にとって時間のもつ意味も看取できると思われる。 なお、この概要に基づく研究成果は、(1)と(2)との関連を考慮するかたちで、近く公表される予定である。
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