ギリシア哲学(プラトン、アリストテレス)の本格的受容が『存在と時間』への道を可能にしたが、その決定的な出発点となるのが、『デ・アニマ』である。「デ・アニマ」への着目は、今まで全くなされていない新しい論点、解釈視点である。人間の生を「現存在」と規定し、基礎的存在論が現存在の分析論の内に求められるという『存在と時間』の基本構想は、『デ・アニマ』の解釈に由来する。『デ・アニマ』の「受動理性と能動理性」は現存在の分析論を深く規定している。さらに『デ・アニマ』の研究は、現存在をSorgeと捉えること、真理を非秘蔵性と解釈することを可能にした。以上のことを『存在と時間』ならびに『存在と時間』への道に即して論証した。 プラトンに関しては、イデア論の表現と、ハイデカ-の存在の規定との同型性を明らかにした。つまり、『存在と時間』におけるWoraufhin(存在と存在の意味の規定)は、イデア論の「それへ目を向けるそれ」という基本構造と同型である。このことは、『存在と時間』がイデア論の問題圏を動いていることを示している。さらに具体的には、「存在者と存在」の区別は『テアイテトス』の内に読み取ることができる。「存在者-存在-存在の意味」という『存在と時間』を規定する三つの次元は『国家』における「現われ-イデア-善のイデア」に正確に対応している。そして『ソビステス』の内に、ハイデガ-は存在への問いの独自の次元を読み取っている。以上のことを、プラトンのテキストを、それに対するハイデガ-の解釈を検討することを通して示した。
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