西田哲学は、絶対無の自己限定として全ての実在を説明する。絶対無とは、「それ自身として可能なもの」の集合と解することができる。互いに不両立のものが含まれるので、当然矛盾を内蔵する。従って存在としては無である。この絶対無は、その中にべき集合や直積集合を形成し、基礎的な構造となる。全体である絶対無から、実在がその部分として形成される。この時、部分は全体たる絶対無の同型写像となっている。この関係が西田の自覚である。この自覚において、絶対無と実在を媒介するものが存する。それは、矛盾を含む絶対無に包摂される無矛盾の構造であり、実在はこの無矛盾の構造を同型写像するものとして成立する。西田はこれをイデヤと呼ぶ。世界も、そして世界の時間的な変様である「時代」も、国家も個人もイデヤの同型写像である。絶対無に包摂される無矛盾の構造は無数にあるので、可能な世界も無数にあると考えられる。上述のように、全ての実在はイデヤの同型写像であるから、それらは互いに同型である。そこで、イデヤは全ての実在に見出される形式的構造とみることができる。形式的とは、一切の意味内容を持たないことであるが、ここでのイデヤは全ての実在の構造となっているので、特定の意味内容を持ってはいないのである。このイデヤについての理論を作れば、それは上記の意味での形式的体系となるであろう。すると、世界や個人は、この形式的体系のモデルということになる。このような観点に立つと、関係の関数的把握と表裏一体のものである「存在性に対する無関心」が見えてくる。世界は形式的なもののモデルとして実在するが、可能なモデルは一つではない。他ならぬこの世界が実在する根拠が西田の体系の中で語られることはない。西洋の存在の形而上学のディコンストラクションともいえる西田哲学は、存在の根拠に関する思弁(例えば、トマスの「存在の分有」)を排する所に成立しているのである。
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