第1に、門中は17世紀に南部の首里の土族から形成されたといわれるが、北部国頭の家族、親族構造の特色は、門中組織がさらに新しくなって形成された点にある。国頭では県民、農民にまで「門中化」の波が及んだのは明治以降のことである。一般に門中墓は門中自体の形成より遅れるが、国頭では昭和10年代以降、最近に至るまで、村墓から門中墓への移行が生じている。ヤ-の継承は、財産、位牌、家督権の継承が主たる要素であるが、家督相続の概念はあいまいであり、きわめて狭い耕地を中心とする財産相続も経済敵意味をあまりもたない。従って位牌の重視がもっとも重視される。これは門中の単位をヤ-ではなく個人としがちであり、また必ずしも同居を伴わなくとも良いから、村落の過疎化の急速となりがちである。 第2に、沖縄の村の共有財産は古来原始期よりもともとあったのではなく、18世紀の祭温による「村切り」政策以降のことではないかとみられる。地割制度も同様だが、村山の管理も、それまでの数村にわたるルーズな農民管理から、王府による厳格な管理体制が敷かれたのは18世紀以降のことである。従って、共有の民有林と官有林の境界があいまいであり、これは明治の土地整理事業の際、共有林の官有林への編入を招く一因となった。村単位の〓区という観念はそもそもない。「共同店」の設置も村落による近代への適応であり、共同体的伝統の産物とはいえない。共有財産からみる限り、「村落共同体」は後世の歴史的産物であるといえよう。
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