今日の成熟した日本社会の現状を把握するために、本研究では、日本型市民社会の形成という視角からアプローチしている。「日本型市民社会」という概念は、イギリスを典型とする西欧型の市民社会とは異なり、大衆社会の成熟にともなって市民社会が形成されるという事情を表現したものである。これにより、後発の資本主義国における市民社会を理論的に解明するとともに、日本の現状把握を試みようとしている。 戦後日本社会の変容を扱った諸著作の整理を進めるなかで明らかになったのは、1970年代前半を境にして日本社会が大きく転換したことである。「私生活主義」、「やわらかい個人主義」などの用語には、具体的な社会生活に即した個人と社会の新しい関係が表現されている。かつての大衆社会論争のように大衆社会が抽象的次元で捉えられているのではない。その意味で確実に日本社会は「成熟」したといえる。 では、この大衆社会の具体的な状況から日本の市民社会はどのように形成されているのであろうか。この点で重要なのは、「功利主義」の問題である。すなわち、「個」あるいは「私」にもとづく行為と社会道徳との関係が問題なのである。これまで日本社会においては、道徳は「外から」与えられたものであったが、この功利主義的な行為それ自体のなかから市民社会道徳がいかにして形成されるのかが、いまや問われているのである。 しかし、この点での理論的蓄積はほとんどない。従来のイギリスをモデルにした市民社会研究では、日本の市民社会は、その「遅れ」としてしか把握できないのである。そこで、本研究では、同じく後発の資本主義国であるドイツにおける市民社会を問題にしたヴェーバーの社会理論を検討することによって、この点での理論的な構築に向けて研究を進めている。その成果の一端は、「『資本主義の精神論』」再考」として発表した。
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