東北地方のカワラのマチは、城下町のサイズが小さい=地域の経済後背が少ないため、特段の差別地域を生むことは、仙台をおいて他になかった。 これに対して、川崎や尼崎には、近代都市の発展の裏面として、買春地域や在日朝鮮人エスニシティー、被差別部落、沖縄奄美集落が複合して存在している。同様のことは、京都市松・木町でも言えるし、紀ノ川新町でも言える。 西日本では、城下町の河原には、古くから、非人や乞食町、川漁師、女郎屋が並んでいた。また、鍛冶屋、在郷商人、船宿、倉庫、湯屋、渡し場などの並んだ河原のマチが展開した。 これは、近世社会において、西日本の方がより市場経済が展開しやすく、広域の経済圏ができていたからであると思われる。特に、川端を利用した船運は、河原町の発展に大きく寄与した。 ところが、近代にはいってからは、川崎や尼崎といった、大都市の近くの近代工業都市に、こうした河原のマチが発展していったのである。近代工業をささえる下層の労働者たちの居住地として、河原が利用されたのである。
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