河内観心寺周辺の調査・研究から、以下のことが明らかにしえた。 (1)中世後期の観心寺では、百姓身分を出自とする下僧の山伏化がみられる。それは、百姓による宗教的自立の道であり、従来の学衆の宗教活動の存在意義をそこねる可能性をもつため、学衆と下僧が厳しく対立した。 (2)近世の観心寺は、江戸幕府から朱印地を与えられる幕府の祈祷寺院となり、下僧の活動を示す史料が『観心寺文書』から消え、下僧の勢力が縮小または排除された可能性が大きい。それは幕府の宗教政策ともかかわるものと推測される。 (3)真言宗観心寺の檀家は非常に少なく、大念仏宗の西恩寺などが観心寺七郷の人々の檀家寺院として存在する。このように寺院の中には、檀家の葬礼や菩提の弔いに携わる寺院とそうでない寺院とがあり、その寺院の2類型の確立は、近世の祈祷寺院と寺檀制度組み込まれた檀家寺院とに由来するであろう。 今年度は、とくに(3)の祈祷寺院と檀家寺院の2類型の寺院がいつ、どのように形成されるかを主として検討した。そこで興福寺大乗院とその墓寺己心寺・元興寺極楽坊を対象に研究をすすめ、中世「ケガレ」観念により、少なくとも南北朝期にその2類型の寺院が成立しつつあったことを明らかにした。とくに墓寺己心寺や元興寺極楽坊は、僧位僧官を有さない遁世僧である律僧によって構成される律宗寺院であった。
|