黒田俊雄氏の顕密体制論、権門体制論の提言により、従来は古代的勢力とされてきた「旧仏教」系の寺社勢力こそが、中世社会や国家を規定する勢力として位置づけられた。しかし、その後の研究は寺社勢力の成立・発展期である中世前期に集中し、いわゆる衰退期である中世後期を扱った研究は非常に少ない。そこで本稿では、中性寺社勢力の衰退期という評価の検討も兼ねて、中世後期の寺社勢力がいかに社会とかかわっていたのかを研究対象とした。大阪府和泉山地の観心寺の研究調査では以下のことが明らかになった。第一は、中世後期には観心寺の本寺である東寺の支配が観心寺に及ばなくなり、観心寺の衆議(僧の会合)によって寺院運営がなされていたことである。第二は、周辺の村の百姓身分からでた下僧(下層身分の僧)が山伏(修験)化し、真言の宗教活動をになってきた学侶(上層身分の僧)と厳しく対立していることである。下僧の山伏化は百姓身分僧による宗教的自立化の道であったと考えられる。第三には、近世の観心寺が幕府から朱印地(所領)を与えられ祈祷寺となり、下僧の存在が確認できず学侶寺となっていることである。第四には、近世観心寺郷の人々の檀家寺院が大念仏宗の西恩寺などであり、観心寺の檀家は非常に少ないことである。このように近世では国家の祈祷寺院と檀家の葬礼を担当する檀家寺院に分けることが可能であろう。そのような寺院の二類型の発生の時期・要因を確かめるために奈良県の興福寺を研究調査したところ、死の「ケガレ」観念により国家祈祷を担当する僧は葬礼から離れ、祈祷寺院の葬礼を担う律宗(聖)系の墓寺(菩提寺)がすでに南北朝期に形成されていたことが確認できた。
|