そもそも近世における封建的土地所有体系の頂点に立つのは徳川将軍で、大名の領地は将軍より宛行われるものであり、大名家臣の知行地はその領地の一部を大名よりさらに宛行われたものであった。つまり、領地・知行地は宛行われる者にとって主従関係を結ぶ上位権力者からの拝領地であった。しかも、所替・改易の可能性があったし、実際に行われもした。もっとも大名の場合、「鉢植え」という認識がすでに当時からあったものの、基本的には刑罰(裁判)権・行政権・徴税権などの独自の領地支配権を将軍=幕府は認めていた。これに対して、大名家臣の場合、大名権力の確立=集権政策のなかで、知行地に対する諸権限は漸次削減・形骸化され、知行地との関係が実質的に保たれた場合でも、その権限は徴税権に限定されたというのが通説となっている。知行地を拝領した大名家臣、いわゆる給人の多くはそのような性格を有していたと考えられ、地方知行制に近世的意義を認める論者のなかで、近世の領主権の基本が徴税権であり、刑罰権や行政権等をあわせたいわば完全な支配権の所有が封建領主としての本質ではないとの主張も、その実態に照らし合わせて考えれば、有力な考え方であろう。しかし、本研究で明らかにしたように、拝領地である知行地を自らの「家」相続の観念から「私領」=家産視し、行政権や刑罰権を保持・行使していた給人もいる。彼らの独自の支配権はいわゆる官僚として郡奉行・代官の地方支配とは異質のものであろう。いわば近世における領主制の多層構造(将軍-大名-給人)の具体的ありようは、武士の官僚制的性格(国家支配のいわば代執行)と領主的性格の連関構造の解明という観点から、改めて検討する必要があろう。このような視角から地方知行制をめぐってはさらに多角的に検討すべきであろう。
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