全国各地の陵墓・古墳について、実地調査・文献調査の両面から実施した。実地調査としては群馬・東京・神奈川・京都・大阪・宮崎の都府県について実施し、陵墓にかかわる伝承を持つ古墳を中心に現今の保存状況や金石文等について知見を得た。特に、群馬県下では総社二子山・前二子山(前橋市)等を重点的に見学、宮崎県下では西都原古墳群(西都市)を重点的に見学した。また、文献調査としては、群馬・東京・栃木・宮崎の都県の史資料保存利用機関について調査を実施した。また本年度の研究では、群馬県下の総社二子山・前二子山について集中的に考察を深め、本研究当初のテーマの明治政府による陵墓指定をめぐる国・県・村相互間の軋轢について、その実相にせまる研究を行なうことができた。 以下研究成果について具体的に概観する。明治初年の熊谷・群馬県は権令・県令楫取素彦のもと、宮内省に対して総社二子山あるいは前二子山の崇神天皇皇子豊城入彦命墓としての指定を求め、執拗ともいえる程に様々な働き掛けを行なったが、それにもかかわらず総社二子山・前二子山は豊城入彦命墓として指定されることはなかった。この間の経緯は本研究で明らかにすることができた。但し、なぜ楫取が豊城入彦命墓指定に執着をみせたのか、総社二子山・前二子山に接する村落が県・国の墓指定に関する施策にどのように関与したかという問題は残されている。また、近年その全部が刊行された『上野国郡村誌』の「陵墓」「古跡」等の項目の記述を詳細に分析すると、近世期における村落と塚・山との有機的な関係が浮き彫りにされる。明治政府による陵墓の指定は、この関係に割って入るものであったと考えられる。
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