社殿の造営や修理に必要な土砂を運ぶ勤労奉仕である砂持は、河川に堆積した土砂を除くことになるため、川や堀による舟運に支えられていた大坂にとって歓迎すべきものであった。天保九年春の天満天神の砂持では天神橋北詰と難波橋北詰の浜が砂揚場になった。砂持は本来信仰心に基づく寄進行為であるが、大坂では砂を運ぶのに仮装したり着物を派手に揃え、鉦・太鼓・三味線など鳴り物入りで深夜まで踊るという市民熱狂の場に発展した。その例は既に寛政元年の玉造稲荷の砂持に見られるが、天保九年の天満天神の砂持ではさらに顕著になった。丸裸に褌を繋いだ姿の連や、石橋、太夫などさまざまな仮装の連が踊りながら練り歩き、これを見る見物人では境内はもちろん天神橋筋が大群集になったことが、天満宮宮司の滋岡日記やこの年に出された一枚摺から読みとれる。このように天保九年の天満天神の砂持がとくに派手になったのは、長い天保の大飢饉から脱出しつつある喜びと、前年の大塩の乱で焦土となった天満郷の復興気運が重なったものと考えられるが、以後の砂持ではさらにこの傾向が強まっている。砂持につづく正遷宮でもまったく同様の喧噪が展開した。安政五年の北神明の正遷宮の一枚摺でも鳥居を先頭に住吉御田の行列、鯛の行列、狐の嫁入り、天の岩戸の造り物、虎の仮装軍団、褌つるぎ、海老連、石畳連、御祓連など楽しい仮装の行列が見られる。このように砂持、正遷宮など本来は宗教的行事であるものが、近世後期の大坂では町人が参加して楽しむ、パフォーマンスの場と化していることが、本年度の大坂の砂持行事の実態調査で明らかになった。
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