パンジャーブは全インド・ムスリム連盟(連盟)がパキスタン運動を成功させる上で最も重要な地域であり、パンジャーブの支配権の獲得なしに連盟によるパキスタン運動の成功はなかったといってよい。今年度は、連盟が州議会選挙で大敗し「パンジャーブ国民連合党」(連合党)によるパンジャーブ州政治の支配権が確立した1937年選挙から、両者の力関係が逆転する1946年選挙までの時期を連盟の躍進期と位置付け、この間の政治過程を調査するとともに、この力関係の逆転を促す要因となったと考えられるさまざまな問題を整理、検討した。 第1に、募兵、物資の欠乏、物価上昇などといった第2次大戦によるさまざまな社会・経済的不満が政権党であった連合党に向けられたことがあげられる。第2に、第2次大戦をとおして戦後におけるイギリスのインドからの撤退が次第に明らかになり、このことがそれまでイギリスと協力関係を保ってきた多くの連合党の支持者たちを連盟との協力関係の樹立へと向かわせたことがあげられてよかろう。なお1945年のシムラ会議の決裂がこの転換点にあたる。第3に、パンジャーブのムスリム社会には伝統的に激しい部族間の対立があり、このことが1946年選挙前における連合党からの有力支持者たちの大規模な離脱の背景となっているが、更にこの背後にはムスリム大衆のパキスタン運動への熱狂があった。そして第4に、このパキスタン運動の宣伝に関連して、イスラームのスーフィー教団のネットワークの存在と「パンジャーブ・ムスリム学生連合」の活動があげられなければならない。こうした問題の具体的考察が次年度の課題となる。
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