今年度は、ホラズム帝国、モンゴル帝国およびイルハン国時代の中央政権とイラン・東部アナトリア・ザカフカ-スの在来政権との関係を研究した。主要な成果は以下の通りである。 1.アナトリアのセルジューク朝(ルーム・セルジューク朝)の国力は、ホラズムの滅亡後ジャズィーラ地方とアゼルバイジャン(現イラン領のタブリーズ地方)地方に伸張して、モンゴル帝国のチョルマガン・タマチ軍とバグダードのアッバース朝とを遮断したが、これが、モンゴル軍のアナトリア遠征の理由となった。 2.ホラズム帝国の残党は、長期間ジャズィーラ地方に滞留したが、アイユ-ブ朝、アルトゥク朝等の在地勢力の間に恒久的地歩を確立することができず、シリアに移動した。 3.1256年、モンゴル・タマチ軍は、アランからアナトリア、タウロス山脈の西に移動し、タウロス山脈には、フラグ揮下のトゥダン等が配置された。 4.モンゴル支配下の東部アナトリアとジャズィーラにアクコユンル、カラコユンルのトルコマン遊牧民集団が形成されるが、前者の主体は、セルジューク朝期の、後者の主体は13世紀の移住者であった。 5.14世紀半ばまで、東部アナトリアとジャズィーラのトルコマン人は、地方君侯や、モンゴル人遊牧貴族の統治下にあり、イルハンは彼らを直接統治していなかった。地方からのモンゴル部族軍の移動が、トルコマン集団の勃興を促した。
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