1.グルジア王国は、1220年ジェベとスュベテイ軍、1936年にチョルマガン・ノヤン軍による征服を受けた後、モンゴル帝国、およびその後継者としてのイルハン国の支配を被る。イルハン国崩壊後は、チム-ル帝国、カラユンル朝、アクコユンル朝に支配される。ジョベとスュブティの軍はグルジアの首都トビリスィには入らなかったが、1236年グルジア王国の東部はヤサウル、西南部はチャガタイによって征服され、8個の万人隊区に組織された。また、人口調査と新税制が実施されると現地長官アルグンは、グルジアの9個のトマン(郡)を置き、タブリーズから知事が派遣された。1256年、チョルマガン軍は、アランからアナトリア、タウロス山脈の西に移動し、ザカフカ-スには、フラグの遊牧地が配置された。 2.アナトリアのセルジューク朝(ルーム・セルジューク朝)の国力は、ホラズムの滅亡後ジョズィーラ地方とアゼルバイジャン(現イラン領のタブリーズ地方)地方に伸張して、モンゴル帝国のチョルマガン・タマチ軍とバグダードのアッバース朝とを遮断したが、これが、モンゴル軍のアナトリア遠征の理由となった。 大アルメニアは、13世紀の始め、アイユ-ブ朝、セルジューク朝のイスラーム王朝によて支配されていたが14世紀にはカラコユンル朝、15世紀にはアクコユンル朝の支配を受ける。カラコユンルの起源の初期の活動はこれはで不明であったが、13世紀30-40年代にアナトリアやシリアを根拠地としてグルジア南部に侵入したトルコマン人は、ホラズムシャーの指揮下にあった人々であり、13世紀末にヴァン湖西北に遊牧していたいた集団と関係がある。彼らの一部はイルハン・アブ-サイド期に地域的政治権力として承認され、カラコユンル集団として組織された。
|