1、人口の急激な増加をみた19世紀末のパリでは、低家賃の住宅が不足して民衆の居住条件が悪化し、社会的不満が高まった。このため、ブルジョワ支配層のあいだに、戸建て住宅の特徴を備えた集合的居住空間の創出を目指す改革運動が勢いを獲得した。その結果として生まれたのが、廉価住宅(HBM)と呼ばれた集合住宅なのである。 2、このような集合的住宅空間を求める模索は、20世紀初め、ロチルド社会事業団のプラーグ街廉価住宅(パリ12区)をはじめとした具体的な成果を生んだ。そこでは、採光、通気などの点で健康と衛生に配慮しつつ、各住戸の独立性を確保する一方で、洗濯、入浴などの機能は共同施設にまとめて住民にたいする教育的効果を期待するといった空間編成が施された。それによって、住民たちの人的関係を統御し、生活習慣を規律化しようと考えられていたのである。 3、上記プラーグ街廉価住宅で主要な住民を構成していたのは、暮らし向きの比較的安定した労働者、職人、職員などであった。これら住民たちの定着度は高く、それを背景にして、世帯規模は縮小し核家族への指向が強まっていった。全体的な居住条件の改善が進み、建設者側の狙いとも掛け離れてはいないように思われた。ところが、高齢者世帯の比率増大をともなう、この動向は子どもを抱える貧困家族への支援、教化をめざす建設の趣旨からすれば、大きな逸脱であると認識されていた。 4、明らかになった以上の事実を、当時の社会や国家のなかに位置づける作業は十分に果たすことができなかった。また、パリ市内の非衛生区画、郊外における田園都市など、両大戦間期の諸問題についても十分な検討、分析をおこなうことができなかった。いずれも、早急に取り組むべき次の課題として残されている。
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