双塔式伽藍配置をもつ寺は、7世紀後半代に突如出現するのであるが、この伽藍配置の採用は、当時この形にそれなりの意義を見いだしてのことであったのであろう。ちょうどその頃、政府による仏教に対する規制がきびしくなった時であり、そのことにも関連するものとも考えられる。いずれにせよ、双塔式伽藍配置をもつ寺に対して、あるいはこのような寺が建立されたことに対しては、重要な疑問点がある。すなわち舎利が両塔ともに納められたのか、という点である。従来説かれているように、一方に身舎利を、他方に法舎利を納めたのであろうか。この考え方はおそらく本薬師寺の塔心礎の一方に舎利孔があり、他方にそれが見られないことから、そのように考えられているのであろう。『七大寺日記』や『七大寺巡礼私記』には本薬師寺塔心礎から舎利を掘だした云々の記事が見られるので、薬師寺で確かに身舎利が納められたとみてよい。東西いずれの塔跡か記されていないが、舎利孔のある東塔の可能性が高い。 東西両塔をもつ寺がいずれも身舎利と法舎利の両者を納めたかというと、これも定かではない。紀伊上野廃寺や因幡栃本廃寺では東西両塔ともに舎利孔をもっている。これらの寺では両塔共に身舎利を納めたのであろうか。東大寺では『東大寺要録』の「実忠二十九か条の事」に実忠が東大寺東塔の〓形に金字最勝王経と仏舎利を納めたとある。すると東大寺では1塔に身舎利と法舎利の両者を納めたことになる。双塔式伽藍配置をとる寺の造営は、鎮護国家を意図したものであり、その目的のために塔は重要な役割を果たす筈のものであった。舎利納置の方式については、それなり儀〓によるものと考えられるが、今後の課題である。
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