現存する古代ギリシア・ローマの最古の文学作品は、紀元前8世紀頃に成立したとされるホメロスの叙事詩である。ホメロスの文学の背景には、文字を用いない口誦による創作と伝承の伝統があった。一方ギリシア人の新たな文字アルファベットは紀元前10〜8世紀頃に創られ、ホメロスの時代には緩慢に普及しつつあった。こうしてホメロスの口誦詩は文字化され、書物となって残るにいたったが、しかし古代ギリシアにおいてその後長期の間文芸伝承の主流をなしたのは、やはり口頭による実演と鑑賞の様式であった。 口誦による創作と伝承は、ある意味で開かれた文化形態である。ホメロスの叙事詩はさまざまな神話や民間伝承を受容・統合しながら大樹のように成長し、ギリシア人の文化の最大にモニュメントとなった。しかしホメロスの作品が吸収・同化したものは、狭い意味でのギリシア世界の口承文化だけではない。ホメロスが活躍したイオニア地方は小アジアの西海岸であり、古くからオリエント世界との交流があった。ホメロスの作品には東方の言語文化との接触の影響が認められる。 本研究は、ホメロスから始まるギリシア・ローマ文学、とくに叙事詩文学の伝承形態を明らかにすることを目的とした。その際、口誦(あるいは口承)と文字使用の相互作用が考察されたが、しかし対象をたんに文芸伝承の媒体に限定せず、広く神話伝承の内的構造と、一定の構造をもつ伝承の受容と変容の問題にも関心を注いだ。とくにオリエントの伝承とギリシア・ローマ文学とのつながりについては、今後も引き続き検討していきたいと考えている。
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