研究概要 |
大分県では、江戸時代には大小合わせて8藩6領に分割され、その下の支配組織も薩摩藩の郷に比べて人口規模の小さい組や手永であった。この結果明治22年には、1町村当りの平均戸数が555戸と政府が掲げた方針にほぼ沿った形で、279町村に分割されてしまった。その後徐々に市町村合併が進められたが、195市町村に整理されただけであった。昭和28年の市町村合併法では、平均人口規模を12,000人にするとして、195市町村ののうち189市町村が合併対象とされ現状維持は6市町村のみとされた。合併に反対した市町村は10町村だけで179市町村が合併に応じ、結果的に67市町村に合併された。 以上3県を通してみると、明治の市制町村制制定や戦後の市町村合併促進法制定においても、鹿児島県は独自の意見を押し通し市町村を区画していった。宮崎県は明治期に行政の効率を図る戸長役場制を重視して大規模の市町村を形成したため、戦後の市町村合併時には大幅な合併を避けることが可能であった。これに対し大分県は、明治期に町村の人口規模基準を優先して小規模市町村を設けたため、戦後の市町村合併時には強引な合併を余技なくされた。いずれにしても、大分県は時の政府案に従い過ぎて、翻弄されてしまったといえよう。 各種施設の利用圏やサービスの受益範囲を施設圏域として選定し、鹿児島県・宮崎県・大分県の3県において、各種施設・サービス項目ごとに施設圏域調査を行った結果、鹿児島県は34施設項目およびそれら施設項目の総圏域数490圏域、同じく宮崎県は36項目/387圏域、大分県は34項目/419圏域が抽出できた。これらをもとに、市町村や旧郡といった行政圏域によって構成されている施設圏域の形態を、8タイプ(A,B,C,D,E,F,G,H,)に類型した。3県ともにE型(旧郡再統一型)に比べてD型(市分離旧郡型)に属する施設圏域、またG型(旧郡合併型)に比べてF型(市分離旧郡合併型)に属する施設圏域が少ない。
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