本研究では、明治前期に宮内省内匠課が手がけた和風宮廷建築として、青山御所(明治7〜29年)、賢処・御座所(明治11年)、東伏見宮邸日本館(明治13年)、有栖川宮邸(同年)、会食所(明治14年)、滋宮御殿(明治15年)、増宮御殿(明治15年)、明宮御殿(明治18年)、塔島離宮日本館(明治19年)、二位局御殿(明治21年)の10件の御所・御殿等の建築技法について、宮内庁書陵部蔵の「内匠寮工事録」の仕様書を主とする基本資料にもとづいて、実証的に調査・研究した。 上記の和風宮廷建築の多くは、江戸時代の京都御所等における和風宮廷建築の伝統的技法を踏襲するものであった。これら明治前期の和風技法が、明治21年完成の明治宮殿の奥宮殿に継承されたものとみることができる。とりわけ、赤坂仮皇居内に建てられた賢所・御座所や、青山御所、明宮御殿の手法が、皇居造営における賢所や奥宮殿(常御殿・宮御殿・皇太后宮御休所)の計画・技術面で継承されるところが大きかったと考えられる。 他方、明治14年に外国公大使の接伴のために建てられた会食所は、暖炉、絨氈敷・ガラス戸・格天井等の内装による和洋折衷様式を試みており、明治宮殿の表宮殿等の和洋折衷様式の前駆的存在とみなすことができる。また、同所付属の割烹所は、宮内省内匠課が建てた早期の煉瓦造建築で、明治宮殿大膳職の煉瓦造建築に影響をおよぼしたと考えられる。さらに、明治15年に建てられた青山御所の御中殿では、杭打、コンクリート地業、煉瓦基礎が施されている。これらの新構法は、当時皇居の洋風謁見所計画に参画していたお雇い外国人コンドルが提唱した構法であり、後年明治宮殿で採用されたが、それに先行して、青山御所の和風御殿で新構法が試行されている事実が判明した。以上、明治前期和風宮廷建築の技法が、明治宮殿に少なからぬ影響を与えたことが明白となった。
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