幕末期の侍屋敷平面には、1.道路に面する座敷を基本とする、平面の構成原理と、2.南面する座敷を基本とする、平面の構成原理の2つの構成原理が存在し、これら2つの構成原理間には、江戸時代の後期から明治にかけての1から2への移行が仮定される。この研究はこの移行過程に関する研究で、城下町として江戸時代に成立し現在に及んでいる弘前・盛岡・松坂・萩・高鍋・小幡において、史料調査あるいは遺構調査をおこなって、移行の時期的な経過を確かめ、その経過を示す遺構をみつけだすことを目的としている。 研究の結果として、最も古い史料である弘前の宝暦9年(1759)の侍屋敷全体の書き上げでは、1の構成原理を示す平面が89.6%、2の構成原理を示す平面が23.4%(南が道路に面する敷地を除くと4.7%)であるのに対して、文化3年(1806)の盛岡の中・下級の侍にあたる諸士の屋敷では、1の構成原理を示す平面が64.9%、2が36.8%(南面する敷地を除くと23.2%)になり、弘前の場合にくらべて1が減り2が増えている。この時代が下ると共に1が減り2が増える傾向は、藩による違いもあるが、全般的にみれば一般的傾向と認められる。 遺構調査から移行の時期をみると、それぞれの町で特徴がみられるものの、明治以降になると2つの構成原理が主となる。一方、弘前では1によらない遺構で最も古い例が明治30年代に建てられたものしかみつからなかったのに対して、萩では1800年以降の幕末期に建てられた複数の遺構に2の構成原理が認められると共に、1から2への改造を示す遺構もみいだされ、高鍋では1から2への移行過程を示す中間の形式が存在したことが明らかになった。
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