従来のわが国における近代体育の本格的な研究開始についての通説は、文部省にあっては明治11年(1878年)の体操伝習所設立、陸軍にあっては明治6年(1873年)のエッシュマン建議を採用しての体育研究制度の設立にあったとされてきた。慶応2年(1866年)末に来日した幕府のフランス軍事顧問団一行のもたらした体育法に関する知識は、これまでわが国に近代体育がもたらされた重要な契機となった点で注目されてはきたが、実技的な伝習とその実見が中心であって、学問的な裏付けを伴う研究の開始とは見做されてこなかった。 しかしながら、本研究によって、フランス軍事顧問団が慶応2年の来日時にフランス陸軍の体育書Instruction pour I'enseignement de la gymnastique(持参した版はまだ特定できないが、初版は1847年)を持参したこと、そして日本側の「三兵御用」として翻訳係を担当した、開成所仏語教授林正十郎がその一部を「木馬之書」として、慶応3年(1867年)(推定)に翻訳していることが明らかになった。 原書(1947年版)を入手し、「木馬之書」の訳と比較検討したところ、若干の誤訳は見られるものの、運動学的にきわめて正確であり、しかもgymnastiqueを「身体運動学」と訳すなど、学問的に工夫された運動表現記述がなされていた。ただし「木馬之書」は、原書約200頁中の10頁に相当するvoltige sur les chevaux de bois(木馬運動)の分だけであり、全体を訳したわけではない。これは当時、騎兵馬術訓練と関連して特に木馬運動が注目されていた可能性を示すものであると思われる。 幕末のフランス軍事顧問団来日を契機としたこのようなフランス陸軍の体育研究はその後も陸軍に引き継がれて「体操教範」等を生み出したと思われるが、その組織や成果等についての解明は現在作業中である。
|