日本の記紀研究史は、つねに「唯一本来」の神話の形態を求めた歴史であった。本研究では、「唯一本来」のという理解自体が、解釈者の意識のなかで自明とされている心的事実に反して、虚偽的なものにすぎないことを究明した。つまり神社テクストおよび解釈は、神名、地名などの単語を共有するものの、物語の組み立ては個別である。我々は、単語の共有性を組み立ての共有性(理念)と誤解し、単語および組み立てが同一な「唯一本来」の神話の存在を信じ、その回復に努力したのである。このように神話が単一であるという信念を自明とするとき、神話ヴァリアントの併存は真伝さらには訛伝として価値づけられ、低い位置に付される。我々は上述のような単一神話信仰から脱却し、ヴァリアント併在状態を解釈の可能性として把え直さなければならない。このように多様な解釈・テクストは、内容が異なるのみでなく、それが置かれる分脈すなわち社会的位置づけが異なる。民族のものとして把えられているのか、特定の王権内のものとして把えられているのかである。このように、我々が神話の本来性を疑うとき、神話の歴史性が明らかにされる。解釈史の批判的研究を通して、神話のもつ歴史性の虚為力を自覚してゆかなければならない。本研究は、その基礎研究として位置づけられるものである。
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