神聖ローマ皇帝カ-ル4世は、選挙侯の独立性を認めることによって皇帝選挙に伴う分裂を回避し、中世後期から近代に至るまでの帝国の支配体制を築いた人物として知られるが、一方で彼は、チェコ王としての立場から、チェコ王国、特にその「首都」プラハをルクセンブルク家の権力基盤として位置付け、これを中心に帝国統治を行うことも試みていた。この努力は、カ-ルの死後に皇帝権が次第にルクセンブルク家の手を離れていったために短命なものに終り、結果として神聖ローマ帝国に「首都」を創る試みは挫折した。しかしカ-ルの在位中の短い期間だけであるが、プラハが制度的にも人的にも帝国統治の最も重要な拠点になっていたことは、P.モラフの研究によって明らかにされている。さらにこの時期が英仏百年戦争と重なっていたこともあり、カ-ルは北イタリアからライン下流を結ぶ通商路を、チェコを経由するように変更させようとした。プラハで行われた大規模な都市改造、拡張プランは、これらの目的に沿うものであった。 しかし同じ時代にパリやロンドンなどがそれぞれ自立的な王国の首都として発展していったのと比較して、プラハの場合には神聖ローマ帝国の首都として位置付けられることを困難にする要因がいくつかあったと考えられる。経済的に帝国の中心に位置していなかったことのほかに、ドイツ人の勢力圏の東の端にあり、ドイツ系、スラヴ系住民の混淆する地域であったことも重要である。それだけに、カ-ルがこの都市を一種のコスモポリタンな都市として発展させる構想を抱いていたことは注目される。ヨーロッパにおける地域の発展の一例として、中世後期から近世まで視野を広げてその社会構造を今後も考えていきたい。
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