朝鮮の府郡面は大正3年初めに大きく統廃合された。植民地・朝鮮における地方行政区画の線引き直しは、すでに統監府の設置された明治38年末頃より密かにその必要性が唱えられていたが、その間、これに伴って生じるはずの政治的リスクへの遠慮等によってその実現が見送られてきたのである。しかし、併合と同時に統監府に取って代えられた朝鮮総監府は、施政早々よりそれまでの懸案であった地方行政区画の改造のための基礎調査に着手し、大正3年4月よりの新しい地方制度の施行を前にその断片に踏み切ったのである。これによって、数百年もの前に定められた道・府郡・面等の地方行政区画は大きく造り直された。 この統廃合のモデルとなったのは、明治20年代に市制町村制・府県制・郡制の施行を前に行われた町村合併および郡廃合であった。両者は幾つかの点において極めて類似している。まず第1に、新地方制度の受け皿として、その施行を前提に全土にわたって行われたという点である。第2に、府県知事(道長官)による入念な基礎調査に基づいた稟請を内務省(内務部)が承認するといった手続きによっていた。第3に、造り直すべき新地方行政区画の標準規模が内務大臣(内務部長室)の訓令によって詳細に指示されていた。第4に、合併等の規模は空前絶後のものであり、これによって出来上がった新地方行政区画は長い間維持されてきた。 しかしながら、両者は国の地方行政区画と地方公共団体の区域との関係如何においては、全く相違している。当時朝鮮においては内地の地方制度と異なって地方公共団体の区域は国の地方行政区画によらしめていたが、これは以後長らく尾を引いていくことになる。
|