平成6年度も前年度同様、セクストスのテクストの読解を中心に据えて研究を遂行してきたが、これによって、特に懐疑主義者が自分たちを「スケプティコス」(sceptic:探求者、考察者)と呼んだ事実が孕む意義について、新たな知見を得ることができた。すなわち、懐疑主義者(探求者)とはまさにアリストテレスが『形而上学』冒頭で、「すべての人間は知ることを欲求する」と言っているとおりの、人間に本来備わった欲求にしたがって生きる人であること、しかも、それはあくまでも理性的探求であり、したがって、懐疑主義者は、哲学の本来のあり方を追求する者であること、そして、理性的探求に従事する点で、けっして理性の存在を否定するわけではないこと、などが明らかになった。このことは、さらに懐疑主義者が、理性の存在あるいは有効性を否定したように思われる議論をどう位置付けるか、という問題とも関わってくる。懐疑主義者は、確かに理性の存在を否定する議論を提起しているが、むしろそれは、独断的否定ではなく、理性にしたがって高邁な理論を立てていると自負するドグマティストたちに対する、言わば解毒剤として解されるべきものなのである。さらにまた、セクストスが、哲学者として真実の把握可能・不可能について判断を保留しつつ、なおいかにして、人体の構造などに関する把握不可能を主張する経験派の医者たりえたか、という問題に関して、新たな発展性を孕む洞察を得ることができた。懐疑と理性の問題、また懐疑と医術行為の問題は、いずれも懐疑主義の哲学としての一貫性の問題とも密接に関係する問題であり、これについて一つの知見が確立されたことは、他の問題を眺める視点も獲得されたことを意味し、7年度の研究を取りまとめる核が得られたものと考えている。
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