平成7年度は、セクストス・エンペイリコス著作における古代懐疑主義の諸相をまとめようという意図のもと、幸福に至るための方法という側面に特に注目して研究を行なったが、成果は次のとおりである。 1.幸福、しかも、アタラクシア-(無動揺、平静さ)という特殊な形での幸福を目的として設定する点において、かれらは一つのドグマをもっているのではいか、という問題について。幸福も、アタラクシア-も、哲学者としてのピュロン派懐疑主義者のドグマではない。むしろ、哲学的反省が始まる以前の、実生活という領域における一般的な前提であり、しかも、哲学的反省が後に加えられることになっても、懐疑主義者の用語を用いるなら、「現われ(パイノメノン)」という資格しかもたないものである。 2.かれらは「現われ」を判断と区別し、現われに則って生きる点において、自分たちは判断を免れているとするが、しかし、かれらの言うところの現われには、判断の要素が含まれているのではないかという反論がある。この問題に関しては、少なくともかれらの理解する意味では、判断の要素は含まれていないという結論を得た。 3.判断保留を幸福に至る道として最初に示した哲学者、ピュロンについて。ピュロンの懐疑はこの世界に関するある種のドグマに基づいている、とする解釈がよく行なわれているが、しかし、この解釈を徹底的に再検討し、かつて私が著した論文の結果-ピュロンの思想には、後のピュロン主義者がドグマと認定するようなものは含まれない-を、新たに見出された諸論点を通して、再確認することができた。 2と3については、できるだけ近い内に成果を論文に表わそうと思っている。
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