第一勧業銀行が所蔵する農工銀行経営資料の存在調査を行ない、これまでに「合併のための調査資料報告」、「合併引継表」などの資料が少なくとも380点(綴りの冊数)あることを確認した。これらの資料は不動産金融のみならず地方経済史の研究にとっても貴重なものである。 農工銀行は1910年代以降、農工業金融機関から離脱して不動産銀行化したが、その内実を解明するために、1910・20年代の尾三(愛知県)農銀と、1930年代の兵庫農銀の大口貸出分析を試みた。尾三農銀の場合、農工業者貸付から「其の他」、商業者にむけて新しく名古屋市に編入される区域の「収益なき見込地」抵当貸付を増加させた。それは「思惑貸付」であった。これらの借り手は農工業者というよりは、むしろ不動産所有者・金貸業・周旋業・重役・料理店・旅館経営者・興業士であった。農銀は貸出に際し、抵当物件の評価は売買価格を基準とし、信用調査は軽視された。農銀は1920年代初頭には農工業金融機関というよりは不動産銀行としての特徴を既に備えるまでに至っていた。 他方、兵庫県農銀は戦前期最大の農銀であったがその貸出の特徴は、神戸市及その付近の阪神地方に偏在し、市街宅地を抵当とする大口貸出が多かったこと、市街地向けの貸出は酒造業などを経営する工業者貸付もあるが主として地主と土地関連の企業であったこと、市街地の中は実態は山林原野である宅地見込地が多いこと、市街地貸付は主として鑑定価格の低い市街地宅地を営業基盤としていたことである。 大都市における農銀の不動産銀行化を推し進めた要因は、それぞれの都市の中心地への貸付というよりは周辺地の収益のない「宅地見込地」(=山林原野)への貸付にあり、市街宅地開発と密接な関連があった。
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