本研究は、(1)近世江戸で発生した「火の見櫓」が現代の地方農山漁村の津々浦々の集落までいかに伝播したのか<時空間における伝播のプロセス>と、(2)なぜ江戸幕府のお触れでつくられた都市施設が一般庶民のコミュニティのシンボルとなったのか<官から民への伝播のプロセス>について明らかにすることを目的とするものである。 既往研究の整理から「火の見櫓」のルーツとその後の展開について「火の見櫓」自体の形態的変化とわが国の消防組識の変遷を併せて明らかにし、下記の仮説を導いた。 (1)「火の見櫓」を全国へ伝播したのは上意下達の官の論理が大きくはたらいたことによる。すなわち、明治期に消防が警察行政に組み込まれ、大正末期までに警察権力によって公設消防組が全国に拡大したこと。昭和初期、軍部主導の防空消防へ移行し一般市民を巻き込んで警防団として全国的に統一され、戦後この組識を受け継いだ消防団によって数多くの「火の見櫓」が建てられた。その最盛期は戦後の混乱が一段落した昭和30年代と推定される。 (2)「火の見櫓」がコミュニティのシンボルとなったのは、町火消に根ざす義勇消防制度の伝統があったことによる。江戸期以来、町火消、私設消防組、防護団など、幕府、政府(警察)、軍との対極で庶民による自衛消防が行われてきた伝統が戦後の消防団にも受け継がれている。さらに今日の消防行政の広域化によって自衛消防の役割も増しつつある。こうした背景から農山漁村において「火の見櫓」は今日も維持されており、消防団のシンボル、すなわちコミュニティのシンボルとなっている。
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