第1に、南北間の経済的格差是正のために連邦レベルに設けられた「低開発地域開発促進ファンド」(FAD)による資金援助は非効率的であり、有効ではなかった。 第2に、自主管理の徹底化をめざす1974年憲法体制が資本の自由な移動を妨げていたので、先進地域から低開発地域への直接投資もなかなか進まなかった。 第3に、統一的なユ-ゴ市場の重要性が強調されていたにもかかわらず、現実にはその逆に、1970年代に経済の地域的閉鎖傾向が進んだ。ボスニア=ヘルツゴヴィナ共和国を例にとってみると、共和国の領域外で調達された商品の割合は1970年には36.9%であったが、1978年には27.1%に低下した。歴史の趨勢とは逆に、むしろ旧ユ-ゴスラヴィア国内では共和国・自治州相互間のしきいが高くなった。このような傾向は1974年憲法体制が共和国・自治州に大幅な権限が与えたことから始まったと考えられる。そのうえ、1977年の外資取扱・対外信用法は各共和国・自治州に、おのおのが国際収支・対外収支ポジションを作成し、予定した輸出と外資収入を実現することを義務づけていたが、これは実際には、共和国・自治州をして他の共和国を犠牲にしてまでも自領域内の外貨収入を増やし、外貨収支の帳尻を合わせるよう行動することを促した。こうして、経済の地域的閉鎖傾向がいっそう進むとともに、これらの共和国・自治州は直接、世界経済と結びつくようになった。ユ-ゴスラヴィア社会主義連邦共和国の分裂傾向は経済的にはすでに1970年代初めに始まっていたことが確認された。 ユ-ゴにおける社会主義の崩壊、より具体的には1974年憲法体制の破綻が深刻な民族対立を招いた。しかしながら、独立した先進共和国も世界市場においては競争力がないため、旧ユ-ゴを構成した国々は経済面では何らかの形での緩やかな結びつきを必要としている。
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