日本古代国家の成立過程を明らかにする上ですこぶる重要な史料であるといえる『日本書紀』の編纂過程に関して考察を実施した。『日本書紀』持統5年(691)8月辛亥条によると、大三輪氏をはじめとする18氏に対し「其祖等墓記」の進上が命じられている。この「墓記」の研究史を繙くに、氏祖の系譜や伝承を記した家記・氏文の類と捉え、『日本書紀』編纂の素材として用いられたと見做すのが有力である。『日本書紀』の編纂は天武10年(681)3月から開始されたことはほぼ間違いないので、かかる見解が認められるとすると、その編纂事業は次の持統朝においても継続されていたこととなる。しかしながら、「墓記」に関する先の通説は、確かな徴証によって裏付けられたものとは言い難く、検討の余地は十分に残されているといえる。「其祖等墓記」を素直に解するなら、"氏祖の墓の所在を記した書類"とすべきであって、氏祖の系譜や伝承を記した家記・氏文の類と把握するのはかなり難しいといえるのではないか。「墓記」提出からおよそ2ヶ月後の持統5年10月には、天皇や功績のあった皇族の陵に、それらの守衛にあたる陵戸の設置が命じられているが、守衛戸を配置するためには天皇陵などの所在をまずは確定することが不可欠となる。以上のような事柄を切り口として種々分析を加えた結果、「墓記」とは"氏祖の墓の所在を記した書類"であって、天皇陵などの所在を確定するための材料として活用されたと考えるに至った。「墓記」の進上が命じられた18氏はいずれも大化前代以来の有力氏族であり、それら氏祖の墓のなかには天皇陵に匹敵するくらいの規模を有するものがあったに違いない。朝廷はそれらを把握し除外することで、天皇陵などの探索をスムーズに展開しようと企図したと推察する。詮ずるところ、「墓記」の上進と『日本書紀』の編修とを結びつける訳にはいかず、このことをもって持統朝においてその編纂事業が継続されていたと主張するのは相当に難しいと考える。
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