本課題の研究日的は、高山樗牛の「美学」思想の特質を明らかにすることにより、それが彼の生きた明治中・後期の時代状況のなかで占めた位置を、「浪漫主義」の思想運動との関わりのなかで解明し、近代日本思想史における「浪漫主義」思想の意義を考察することにある。近年では、近代に対する批判的な反応を具体化したという観点から、保田與重郎など、昭和期の日本浪曼派の活動の再評価が進められているが、日本浪曼派同人たちが自らの先達として位置づけた明治期の「浪漫主義」者の思想に関する内在的研究は、まだ十分に行なわれているとはいいがたい。高山樗牛の思想の研究は、上述の研究動向を補完し、近代日本の「浪漫主義」の思想史的意味を究明する上で重要な位置を占める。なぜなら高山は、作家ではなく美学者として、西洋の「浪漫主義」の理論を自覚的に取り入れて自らの思想を構築していった人物だからである。 以上の目的のもと、本年度においては、高山樗牛の「浪漫主義」思想の歴史的意義をより明確にするため、彼の友人や周辺人物との思想比較を試みた。とくに高山の友人であり、批評家でもあった宗教学者・姉崎正治の思想分析に取り組んだ。姉崎は、芸術にも造詣が深く、高山が没した明治35年(1902)以降には高山の思想的後継者とも見なされた人物であった。日露戦争の時期になると、姉崎は雑誌『時代思潮』を創刊し、文明批評家として時代状況に対して旺盛な言論活動を展開していくことになる。姉崎の議論は、芸術や宗教に対する造詣もあって、いわゆる煩悶青年たちに一定の支持を得たが、日露戦争が終結に向かう明治38年の頃になると、自己犠牲の価値を強調し、文化的な共同性を重視しようとする傾向が現われ、やがて後に明瞭な国家主義に転化していってしまう。「自我」の救済から「国家」への帰依という姉崎の軌跡は、「日本主義」を唱えた後に「個人」の立場にこだわった高山の思索と対照的であることが明らかである。 以上の研究成果は、学術論文として発表したが、このほか、高山樗牛と雑誌『明星』グループとの思想的交流の問題について学会での口頭発表も行なっている。以上の比較を通して明らかになる同時代における「浪漫主義」の思想の全体像を評価していく必要があり、引き続き多角的な観点から考察を加えていくことを課題としたい。
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