18世紀フランスにおいて歌と踊りを排除した「近代劇」が発明された理論経緯を、その際の参照項となった古代ギリシア・ローマのテクストとの関連において解明するのが今年度の研究の主要な目的であった。 この観点から、「演劇の低俗さについて」では、現代演劇においてこの近代劇という形態からの解放として、「戯曲=ドラマ」という要素が中心を占めるものではない「ポストドラマ演劇」が生まれた、というレーマンの論説に対する批判を展開した。つまり、アリストテレスの『詩学』と古代弁論術との融合から生まれた「ドラマ」という演劇形態はそもそも身体、とりわけ歌い踊る身体を「低俗」なものとして排除する視線を含んでいるのであって、否定的にせよこれを出発点として身体を主要な構成要素とするようなスペクタクルを分析することはそもそも不当な試みなのである。これに対して、この論攷の末尾では、古代ギリシア・ローマにおいてとりわけ歌い踊る身体と結びついていた「優美」という概念を、ドラマに代わるもう一つの舞台芸術思考の軸として提示した。 「優美と気取りの起源について」では、これをさらに展開し、近代ドラマ思考の枠内での優美をめぐる演技論が、古代の弁論術の優美概念に多くを負っていることを明らかにした。ところが、これが弁論術特有の論理である気取りの概念と結びつき、近代においては演技という技術自体を否定する新たな言説を産み出すこととなる。この演技生得説は古代弁論術に参照して形成された特権階級の行動規範に根ざしており、ここでは気取りの名の下に歌唱的・舞踊的身体が排除される。これが『詩学』の身体観と結びつき、近代演劇の身体を形成していくことになるのである。ところがこれを再び古代に置き直してみれば、実のところこの近代の優美概念は、優美と技術とを低俗なものと見なして排除するアリストテレス的身体思想の実現に他ならないのであった。
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