本研究は、不利な状況にありながら自力活動を基調として居住環境を確保してきた在日韓国・朝鮮人集住地区の形成過程を明らかにする。その方法としては、行政区レベルの社会資本整備の経緯を俯瞰しつつ、さらに細かなレベルの集住環境を分析する。対象地としては、昭和初期の集住傾向が旧東成区で顕著であり、その範囲が現東成区、生野区にほぼ重なること、統計や他の既住研究からみて、現在の在日韓国・朝鮮人の集住傾向が戦後も顕著であり続けていたこと、などの理由から東成区と生野区を選定した。 大正期、工業化・都市化が進み、急激に人口が増加する中で、既成市街地に接するという立地性が東成・生野地区の宅地需要を高める。地代・家賃の収益性の高さが主な動機となり、民間地主組合による宅地整備が推進され同時に河川改修も進むが、基本的な部分の整備にとどまった。極めて短期間に長屋建設が進んだ鶴橋耕地整理組合事業では、建築線指定後も本格的な区画改造がなく、道路の設計条件がもともと貧しかったのに加えて、大きすぎた街区スケールが原因となって、零細敷地を生み出し、偶発的な行き止まり道路等の問題を生じさせた。 在日韓国・朝鮮人の集住が最も著しい東成・生野地区、とりわけ鶴橋区域は以上のような文脈を持つ地区であった。
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