ゴルバチョフ期の末期、とくに1989〜91年にかけて、旧ソ連改革の最も有カなモデルとして、日本モデルが賞賛され、積極的に導入されようとさえした。研究者は、本研究開始前、日本モデルがモデル自体としてもつ優秀性そのものの故に、旧ソ連のような旧社会主義政治・経済体制の国においてすら、その素晴らしさが遅まきながら認識されるようになったと、ややナイーブに考えていた。したがって、中間報告の段階で執筆し内外で発表した英文の口頭報告や論文の中においては、研究者は、旧ソ連/ロシアにとり日本モデルが有効性をもつ理由として、二つの要素を強調していた。一は、「親近性」。(i)日本は、低い段階から発展を遂げた点において、ロシア人に親近性を抱かせる。(ii)日本は、近代化、工業化、西欧化を急速なスピードでなし遂げた。(iii)日本の政治、経済上の特徴や経験は、ロシアに手近な参考例を提供する。他は、「卓越性」。日本モデルは、(i)科学・技術の利用が巧みである。(ii)日本は、危機発生後の対応や克服の仕方が優れている。(iii)戦後日本は、政治・外交・安全保障の分野において、時代を先取りしている。中間報告後の研究深化によって得られた成果は、第三の「政治性」ファクターである。ゴルバチョフ政権は、エリツィンなど改革派の突き上げによって、米国モデル採用の是非の岐路に立たされた。しかし、米国モデルを採用すると、国家は、統制権力を急速に失うこととなることを懸念し、保守派は、猛烈に反対した。米国モデルの対抗手段として急速に1989-91年の時期に浮上したのが、日本モデルだった。モデル間の争いは、91年8月クーデター発生とエリツィン派の勝利によって、米国モデル派に勝利を齎した。とはいえ、最近のロシアでは米国モデル追従が批判されはじめた。その関連もあり、日本モデルは、政府主導を排除する欧米モデルのアンチ・テーゼと観念され、現ロシアにおいて依然有効性を保持している。
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