意図的行為を「しかるべき心的状態をもちつつ身体を動かし、それによって環境に働きかけ、所期の変化を引き起こすもの」とする見方を批判し、第一に、身体動作と環境変化は意図的行為において一体として促えねばならないこと、第二に、意図は心的状態ではなく、われわれの実践の場面で働く「障害と調整の可能な物語」として理解されるべきであることを主張するに至った。そのように捉えられた意図的行為を出発点とすることにより、従来「AすることによってBする」という形式で捉えられがちであった行為の関係を「AすることにおいてBする」という形式として読むことを主張し、そうすることによって「行為原因の無限後退のアポリア」が解消されることを示した。新たに導入されたこの関係は「分析的生成」と呼ばれる。さらに、行為と意図的行為の関係をディヴィドソンの図式に部分的にのりつつ、解明した。こうした議論の結果、研究は実践や倫理の場面との関連へと広がりつつ為されねばならないことが確認された。
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