戦国期の天文占(石氏占・甘氏占)に見えるケイ惑(赤星・執法・罰星とも言う)は、基本的に五星(木星・火星・土星・金星・水星)の占いのひとつとして記録されるに過ぎない。「其の國、禮を失し、夏政を失すれば、ケイ惑逆行せん」(石氏占)や「ケイ惑、昼見わるれば、臣、主を謀る」(甘氏占)などのケイ惑に関する記録も、実は「歳星・土星合すれば、内亂を爲さん」(甘氏占)や「五星、行を失せざれば、年穀豐昌ならん」(石氏占)のような五星吉凶占の記録の一部であり、ケイ惑だけが特別視されているものではない。ところが、時代が下がるにつれてケイ惑の特異性は際立ってくる。漢代には、ケイ惑がその軌道を逸することを兵火の前触れとして恐れる記録が『史記』天官書や『淮南子』天文訓など多くの文献に明記され、宋の徽宗の大觀年間には、有名な「ケイ惑の事変」に見られるようにケイ惑の出現・消滅が現実の政治社会を大きく左右している。更に、元に生まれた『十八史略』には、戦国期にすでにあったケイ惑=凶星の思想を基に、人主の人徳・善言によってケイ惑を遠ざけることができたエピソードも生まれている。このように、もともと五星すべてが予言性を持っていたにもかかわらずケイ惑だけが特に恐れられ、ついには将来を予言する「謠」と結び付き、火星の精(童子)が使者となって予言(童謠)を流行させるというパターンが生まれる。これは漢代、殊に後漢末期に流行した災異説・讖緯説のひとつのバリエーションとして位置付けることができると考えられ、当時、讖緯思想がいかに人々の間で大きな力となっていたかを裏付けることができるだけでなく、従来の緯書中心の讖緯思想研究を展開すものである。
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