平成7年度は『史記』『漢書』『後漢書』『三國志』『晉書』中、主として「天文志」及び「五行志」に記録される「けい惑」の記事をすべて抽出してコンピューターに入力し、けい惑はそれぞれの史書でどのような存在として認識されているかを整理し把握することが中心となった。つまり、前漢から後漢・魏晉三国と、時代の変遷とともに「けい惑」がどのように社会性・政治性を付与されて変質していくか、「けい惑」が予言と結びつく経緯を実証することを中心に研究を進めた。その結果、以下のことを明らかにすることができた。 『史記』に見えるけい惑の記録は量的に少ないだけでなく、「けい惑」の観測結果と後に記録される事件との因果関係は全く説明されない。『史記』では「けい惑」に対して抱いた不気味さや不可思議さを記録した司馬遷の意図は察知できるものの明確な思想性はない。例えば始皇三十六年、「亡秦者胡也」の予言から四年、始皇帝の死を予言する二つの記録が見えるが、司馬遷はそこに「けい惑守心」と書いてけい惑と二つの予言との相関関係をそれとなく暗示するに止める。ところが、『漢書』ではけい惑の観測記録が増えるだけでなく、戦国期以前のけい惑=凶星のイメージが災異説と直結して、けい惑は現実社会の応徴なりとの思想が定着する。そして、『後漢書』になるとけい惑は現実社会応徴の側面と、けい惑の異常現象がその後に起きた事件(戦争や反乱、外戚・宦官の抗争、あるいは天子崩御)を予言する思想として変容する。同時に『漢書』までは予言としての「謠」とけい惑が一体化することはなかったが、『後漢書』からから「予言」「童謠」「けい惑」の三者が一体化し始める。以後『三國志』『晉書』では更にエスカレートするが、反体制・権力批判としての予言・「謠」・けい惑は、かつて災異説がそうであったように、その予言性の故に体制擁護・権力の正当化のために利用される傾向が強くなる。なお、本成果の一部について、1995年9月25日〜28日、中国人民大学(北京)で開催された第1回「二十一世紀に向けての華人文化国際シンポジウム」において中国語による研究発表を行った(国際交流基金の派遣による)。
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