古代中国の「童謠」は、かつて日本では中根淑(1908年)、中国では周作人(1914年)がその特異性に着目してその社会思想史的意義を論じた。しかしながら、それ以後、中国でも日本でも文学史に必ず取り上げられるものの、いずれも文学史上に五言詩・七言詩の先駆として結論するに終わっている。そして、「童謠」は概して荒唐無稽であるとして、社会史や思想史研究から追いやられることが多かった。私はひとつひとつの「童謠」を史実と照合しながら分析して、「童謠」の持つ予言の真の意味を解明し、「童謠」は単に当時の社会を反映している歴史的産物ではなく、時には体制を覆す原動力となり、現実の政治・社会を動かした事実を論証してきた。漢代「童謠」の流行と定着は菫仲舒の災異説の変容過程-現実政治に対する譴貴であった災異説が未来記に変質し、讖緯説に吸収されて権力機構の正当化あるいは擁護の理論へと変質する過程と重なる。すなわち、災異説本来の思想を継承した「童謠」が、権力の暴走を防止し権力機構の横暴にメスを入れる体制批判の思想を担っていたのである。一方、戦国期以来の占星術は讖緯思想の浸透と相俟って定着し、五惑星の中の〓惑(火星)の凶星イメージが「童謠」と結合し、「童謠」は〓惑の精である童子が地上に降りて天の託宣を告げるものとして生まれ変わる。もともと神託としその意味はなかった「童謠」-少なくとも『史記』では〓惑の観測結果と後に記録される事件との因果関係は全く説明されないにもかかわらず、後漢末から「予言」「童謠」「〓惑」の三者が一気に一体化し始め、以後『三國志』『晉書』では更にエスカレートし、現実政治・社会を監視し批判する武器として役割を担った「童謠」は、〓惑と結合して予言化したことによって、かつて災異説がそうであったように、その予言化のゆえに讖緯思想のひとつのバリエーションとして流行し、体制擁護・統治者の正当化に利用されるに至った。
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