1994年度は行政サイドの予算執行の大幅な遅れのため、研究計画の相当な変更を強いられ、本年度内は主要研究対象である李叔同(弘一法師)の著作の読み込みに集中せざるをえなかつた。課題としている馬一浮や豊子ガイとの比較については、資料収集およびその手はずをつける段階で終わった。 李叔同のテクストともに伝記類を読み込む作業では、とりあえず、以下の点の把握を重要な収穫としうる。まず、名門の非嫡子として生まれ育った李叔同の家庭は僧門ではなかったが、それでも幼少時から演劇同様、仏教にも親しむ環境にあったことがよく分かった。そのことから、たとえば毛沢東の母親も熱心な仏教徒であったことはよく知られているが、19世紀末の中国の名門家庭一般における仏教の浸透度について、認識をあらたにする必要があると考えられる。そうした観点からも今後、さまざまな資料にあたり、儒教のなかに解消された仏教という従来の位置づけを再検討すべきことが確認できた。ひいては、教団仏教の衰退、一部の変革の志士のみによる仏教の再発見(=中国近代仏教)という従以来のとらえ方もまた修正されるべきだということになろう。また、李叔同自身についても、突然の仏教帰依というよりは、幼少期の素養への回帰という側面を検討してみる必要があるということになる。にもかかわらず、李叔同が章炳麟の「仏声」とも評された仏教色濃厚な革命論に深く共鳴し、影響を受けたこともまた革命同盟会に加わった日本留学時代の春柳社での演劇活動や著述からより明らかにできた。
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