ほとんど先行研究はないが、以下の点はことに初めて明らかにされた。 まず李叔同の革命派知識人との交友関係の機縁が、南洋公学で蔡元培に学ぶ以前ににあったことが分かった。シンパシーを抱いた戊戌変法が政変で挫折したことで上海に出て、1900年に上海書画公会を組織し、ここで明炳麟の友人でユダヤ財閥のハルドゥーン夫妻をパトロンとして革命派文人を支援した烏目山僧黄宗仰らも加入したのであり、李叔同もまたのちにハルドゥーン夫妻から出版援助を受ける。ここでの交友関係は1905年に日本に留学して芸術を学び、また同盟会に参加して「芸術救国」を目指すことにつながっている。辛亥革命前年の帰国後、編集業等を経て杭州で教職について最もよき理解者、夏〓尊と同僚になり、豊子〓らの学生を養成するが、突然、有名な「出家」をする。直接の契機は日本の雑誌記事に啓発されて寺で断食を体験、「心身霊化」を自覚したことだというが、仏教学そのものについては西洋語にも通じた杭州の碩学、馬一浮の導きがあった。新理学の「現代新儒家」と規定される馬一浮だが、その友人、梁漱溟らと同様、仏教に親しみ、『老子』と般若の教えの「印合」、華厳の理と儒教との「和会」を論じていた。出家はしたが国難を意識し、科学や愛国との両立を含めて近代仏教の社会性を説くにしろ、仏法の空義を得てこそ救世の事業は強大かつ長く徹底しうると強調しており、出家はそれ以前の中華民族主義・進化論的近代化論への芸術家的な感性に由来する、よく時代を超えようとの「反思」の表象であったと考えられる。 また豊子〓の芸術への影響に関しては、李叔同が出家に求めた脱塵の悟りの表象を豊子〓は「児童」に発見し、何気ない生活面に「無垢」の児童を配することで、当時の俗世の不浄を風刺的に描く「漫画」の独特なスタイルを創出することになったと考えられる。
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