昨年度に引き続いてイエナ期におけるヘーゲルの思索の発展を主に主題とした。昨年度において、すでに私はイエナ初期において絶対者を把握する思弁をもって直観と概念との統一として捉えていたヘーゲルが、『精神現象学』において概念による絶対者の把握を説くに至る経緯について、ヘーゲルがスピノザ主義との対決を通して、否定の否定という二重否定の論理を自己のものにしたこと、そしてこの論理は共同生活のうちに生きながら、そこに埋没せずして、あくまで個体性の主体性を確保しようとしたヘーゲルの問題意識を背景にしてヘーゲルが自己のものにしたものであることを明らかにしたが、今年度は視圏を拡げてヘーゲルのラインホルト、フィヒテ、シェリング、ヤコ-ビなど周辺の思想家との関係において、こうしたヘーゲルの思索の発展を追った。その結果、『差異』論文や『信仰と知』などの諸論文に見られるヘーゲルのこれら思想家の理解と批判が必ずしもこれら思想家の思想の肯綮に当たるものではなく、また例えば、ヘーゲルのシェリング理解がラインホルトのシェリング理解と無縁でなく、或いはヘーゲルのシェリング批判がフィヒテのシェリング批判と無縁でないように、これら思想家を表面では批判しながらも、その実、多くのものをこれらの思想家の思想からヘーゲルが肯定的に摂取していることを確認した。ここに私見によれば、最初『意識の経験の学』と予定された標題が『精神現象学』に変った経緯についても、執筆中におけるヘーゲル自身の構想の変化、拡大が背後に控えていることは勿論であるが、それが「現像学」と改題される背後には、しばしば指摘されるランベルトやカントにおける現象学の用法より、従来語られること少ない1802年以降におけるラインホルトやフィヒテの用法との関係の方がむしろ顧慮されなければならないように思われる。
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