西欧最初の美術アッカデミア(アッカデミア・メディチェア・デル・ディセ-ニョ)をミケランジェロとの関連において検討した本研究において、15世紀末のフィレンツェのメディチ家彫刻庭園と16世紀の美術アッカデミアとの関係がより明確になった。ミケランジェロがこの庭園で貴族たちとともにベルトルドから古典彫刻を、ポリツィアーノから古典文学を学んだために、後にヴァザ-リはここを学校ないしアッカデミアとして報告した。そこは1489年頃、ロレンツォ豪華公の都市計画による新宮殿や図書館建設のための美術家養成ならびに建築資材、装飾品調達場所としての具体的な機能をもち、総合的な美術学校の観を呈したのである。都市計画は政変によって実行されなかったが、庭園はサン・ロレンツォ教会のメディチ家墓碑、ラウレンティアーナ図書館建設の場として機能し、結果的には1563年の国家的なアッカデミアであるメディチ家素描学院の設立の動機を与えていたことが分かった。研究者は、この研究成果の一部を、平成6年12月3日のルネサンス研究会(於、東京大学)で、「ミケランジェロの《ケンタウロスの闘い》について-美術アッカデミアの出発点-」という題で発表した。さらにその内容は平成7年の『ルネサンス研究第二号』(本部・埼玉大学、6月発行)に投稿中である。そこでは、メディチ家庭園が教会のコンパニ-アや文学サークル的なコンパニ-アとの関連をもち、アッカデミア的な性格をもち始め、それが図書館の設立の本部であり続けたことを明らかにした。メディチ家が近代国家へと発展する程度に応じて、建設資材等の調達だけにかぎらず、芸術家の保護と自由な制作を促すために本格的な学校化が要請され、その組織化はメディチ家のご用芸術家のヴァザ-リによってなされることになった。その組織化の過程およびそのカリキュラムについては、平成7年度に改めて学術誌において報告する予定である。
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