本研究は、近代日本社会学史研究の一環として「「日本社会学院」の活動と建部遯吾」の考察を意図したものである。特に近代日本における学問運動の組織化、制度化という視点に焦点を合せて、社会学という学問運動の制度化と社会学思想の形成を再検討しようとするものである。 「日本社会学院」の組織化は、明治30年前後に設立され布川孫市、高木正義、加藤弘之などによる「社会学会」「社会学研究会」(枠関誌『社会雑誌』『社会』『社会学雑誌』)の活動の一時期の後に、大正2年〜14年の間に全国的な学会組織として設立された(枠関誌『日本社会学院年報』『社会学研究』)。らの中心になって組織化と学会運営にあたったのが東京帝大教授・建部遯吾であった。 建部社会学についてはこれまでの学史研究のなかでも注目すべき研究も少くないが、渾一体としての国家有料体論にもとずく彼の社会学体系がどのような社会思想、社会学思想の形成によって支えられていったのか、また彼の社会学活動の中心であった「日本社会学院」の活動内容に関しては、充分に解明されてこなかった。本研究では、明治30年前後からの若い学徒としての建部の哲学思想、社会思想、社会学思想の形成がどのようになされていったのかを、特に彼の著『陸象山』(明治30)『哲学大観』(明治31)『西遊漫筆』(明治35)『外政時言』(明治36)『静観余録』(明治40)などの著作、『六合雑誌』『哲学雑誌』『日本社会学院』などの雑誌論文等の収集、文献渉猟を試みることができた。
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