昭和9年、我が国において農村経済更生計画の施策が順次全国各町村に対し指導され始め、高鷲村もその計画に沿うことになり、高鷲村は昭和12年に更生計画村に指定された。続いて昭和13年6月特別更生助成村の指定を受けて、経済自立に向かったが、昭和13・14年頃より軍事目標に合わせて適正規模農家の創設をおこなうには、大陸進出以外に他に方法がないとの気運が高まった。 当時の全戸数700戸(農家約600戸)のうち約三分の一の200戸を移民する計画を立てて、昭和15年4月高鷲村よりの分村先遣隊が間島省琿春県琿春へ高鷲開拓団として入植した。 昭和15年から20年に至る先遣隊・本隊・後続隊123世帯641人の分村移民が母村の経済更生計画に及ぼした成果は、大東亜戦争開戦から敗戦の混乱期であるため、適正な判定が困難であるが、更生計画の目的であった自立農家創設への途は程遠いものであったと思われる。 敗戦によって、引き揚げた戸数は110戸(351人)であるが、在満中の一家族平均5.2人が帰還時は3.5人であるのを以ても如何に悲惨であったかがうかがえる。 昭和20年敗戦直後の高鷲村の状況は、他地域の例外ではなく、混乱をきわめた。緊急開拓措置法により、昭和20年度より蛭ケ野地区において緊急開拓事業が着手されたが、土地の国家買収をはじめ多くの問題を生じた。以後の問題については、次年度の課題としたい。
|