岐阜県送出の開拓団は、昭和8年2月の弥栄村開拓団からはじまり、昭和19年3月の第13次瑞穂開拓団にいたるまで、40の開拓団が送出され団員は9626名を数えた。 昭和15年当時の高鷲村は、人口3653名681世帯の全戸数の約80%にあたる540戸が農家の岐阜県の一農村であった。その高鷲村から、昭和15年4月10日に満州国間島省琿春県純義村に入植したのは、成人男子205名・同女子187名・子供男子127名・同女子127名の計646名である。 入植から5年、団員は昭和20年8月9日の退避命令を受けて8月11日間島に到着し、そこで終戦を迎える。そして、9月には琿春に帰還し、難民収容所に収容されるが、近くの炭鉱に強制収容され、坑夫としての労働に従事するという難民生活を余儀無くされた。 8月30日に県政府より9月1日出発にて内地帰還の命令がでた。9月1日には琿春のかつての日本の在満国民学校の校庭に集合し、一世帯の荷物をリュックサック一個に背負いこんで元気に出発した。その後、9月10日に吉林日僑収容所に入り、さらに新京収容所で過ごした後、団員は胡盧島から乗船して10月21日に博多港に上陸した。 かくして高鷲開拓団は、先遣隊入植以来6年7ケ月の長い夢を終えたのである。昭和20年以降の蛭ケ野地区の開拓については、次年度の課題としたい。
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