平成8年度の研究は、岐阜県郡上郡の高鷲村満蒙開拓団について、高鷲村開拓団の(1)昭和12年の分村計画の樹立から昭和15年の開拓団の建設・営農まで、(2)昭和20年の日ソ開戦に伴う満州引揚、(3)戦後の蛭ヶ野地区の開拓および開拓基本事業といった3つの区分に分けて、戦中・戦後の混乱期に開拓団がどのように変容していったかを、歴史社会学的に分析することにより、混乱期における集合行動の分析をも併せて行った。 社会的緊張状態に直面した人々が、集合行動の強力な起動力として、如何なる信念を抱いていたのか、また、如何なるメカニズムで集合行動がとられたのかを、社会学的に考察した。 敗戦という冷厳な事実の前に、開拓団の人々の夢は、分村文郷の成果も結果を見ずに崩れ去ってしまった。しかし、いろいろな計画をたて、母村と現地をつないで、豊かな農村を作ろうと意欲を燃やしたその経験と開拓精神が身についていて、新しい日本の混乱した社会の中で、それが成功の基になったようである。 各職場で成功を納めた人々や、開拓農業からはじまり、酪農、果樹、野菜などの日本の畑作農業の先駆的な役割を果たしている人々は、満州開拓の貴重な経験を生かされたのだと思われる。 満州開拓事業の軍事的な役割については、大いに反省しなければならないが、訓練と開拓のなかで、非常に強い精神力が形成されたことについては、今後の日本の教育を考える上で、1つの貴重な教訓となるのではないかと思われる。
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